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アトピー人生脱出話②〜小学校の頃の状況


そもそもなぜその保育園の同級生で僕ら3人だけが卵、小麦粉アレルギーなのか。他の大勢はそうはならずに、3人だけなっている事には必ず原因があるはずだと思っている。遺伝。では絶対に済ましてはいけない事。僕は4人兄弟で、姉と僕だけなのだから。

遺伝というと、もうどうしようも無い事にされて諦めてしまう。ところがここにアトピー人生を歩んでしまった原因が大きいと思う。小麦粉、卵などにアレルギーが反応してしまう事が今よりかなり珍しかったこの頃に原因を知るのはかなり困難だったのだと思う。

こういう場合は人生の経験、哲学、思考する力が極めて必要なのだとおもう。それが子供には不可能で、親の仕事になるのだ。でも現代と情報取集の差が半端なく違う。20年も前だ。でも諦めてしまうのか、それともとにかく原因追求出来る身体なのか思考能力なのかはきっと生き方に出るのだろう。

まともに生きていけばそれはかなり必要の無い能力だと大人になっていくにつれ思っている。

ま、この子供の頃から「アトピーっ子」と呼ばれ、まるで、新しい種族として僕とその2人の3人はまとめられた。宇宙から来たみたいで僕は気に入って無かったが、今思うと、もっとこの可愛い名前を利用してふざけておけば良かったなと思う。

取り敢えずアトピーっ子だった僕はその後小学校の6年間もずっと給食とは少し距離を置かなければいけなかった。毎日出るパックの牛乳は全く飲まず、パンについてくるマーガリンもずっとダメだったような気もする。パンは小学校からは食べていたかもしれないが、他の2人は僕より酷いアトピーとされていたのでその2人はもしかしたら弁当持参のはずだった。

この小学校の時期、僕は肌には湿疹は全くなかったように思う。それより耳鼻科に通い続けていた。

病名はアトピー性鼻炎と滲出性中耳炎。両方、アトピーが関係していると親にも医者にも言われていたのを覚えている。

そういえば、確かアトピーというのが1人では無かった事が僕にはとても心強かったのを覚えてる。僕はみんなと一緒にふざけ出すと歯止めが効かなくなるが1人だととてもできず、小心者だと子供の時から自覚していた。だから絵を描くのが好きだったのかもしれない。という今回の話とは関係ない事を今思いついた。(昔の事想い出すのってなんか色々繋がる)

話が脱線するから今回はここで終わっておこう。

続く。

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